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此処にはなにもないけど、そんなのは何処だっておなじだよ
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    え、こんなギリギリになって話題にすんの? 今もう98日目とかだよ?
    と自分に言いたくなるけど、この話自体は半分過ぎるより前からぼんやり考えててさ。ただ、ほら、例によって書くのもまとめるのも面倒で…結果、夏休みの宿題を最終日にやるような気持ちで今これ書いてます。

    で。
    なんだかんだ皆さん、100日後がどうなるのか、気になるじゃないですか。
    娯楽ってのは難儀なもんで、予想を裏切ったかと思えば期待には応えたりしなきゃいけなかったりと、まあ忙しい。
    では今回の場合、予想とは何で、期待とは何だろう。

    ワニの死?
    それは予想なのか、それとも期待なのか?

    これね、どっちでもあるよなあ、って。
    ワニ君の死は予想されているし、期待されている。
    すげえひどいこと言ってるみたいになったけどまあ聞いてよ。

    そもそもこの漫画はオチを当てるようなミステリじゃない。そりゃ穿った予想をしろと言われれば「実は死なない」とか「死ぬって言ったが物質的な死じゃないです」とかいろいろ考えることはできるけど、そういう話じゃないよなあ、って。
    『100日後に死ぬ』という言葉によって、それまでの何気ない99日間の日常がいかに尊きものなのか気づかせてくれる…みたいなところにみんな惹かれたんだよな。100日目はメインデッシュじゃない。あくまで今流れてる日常こそが大事。

    だから、予想するまでもなく、ごく素直に「100日後には死んじゃうんだな」と思っている人が多いと思うし、そういう見方で間違ってないと思うんだよ。というより、今この作品が皆に感じさせている価値は、死ぬというその前提によって完成すると言っていい。

    そして、それはそのまま、ワニの死を「期待」している、ということだよね。

    とんでもない! 日を追うごとにワニ君の日常が愛おしく感じているのに。
    100日後に死んじゃうなんてつらい、と思ってるのに。
    決して、ワニ君の死なんて望んでいない。

    という反論があるかもしれない。というか、この作品に惹かれた人ほどそう思うような構造になってる。
    その感情は全然まったく嘘偽りないとも思うんだよ。
    (あるいは一部の惹かれすぎた人は本気で殺すなと思ってるかもしれないけど、それは危うい距離感だろう)

    ただ、多くの人はたぶん、死んでほしくないと思いつつ、死なないとモヤっとする。と、思う。
    なぜなら、期限が設けられることによって発見された日常の価値は、期限を迎えることによって完成するからだ。
    もし100日の期限を過ぎても生きていられるなら、それは当事者的にはどう考えても幸福なんだけど、作品としてはなんだか半端な印象になってしまうだろうな、って。死ぬと知ってた(思っていた)からこそ見守ってきた99日間がより尊く感じられたのは単純に事実であろうし、その前提が無くなってしまうと「よかったね」と思いつつどこか肩透かしを喰らった気分になるだろう。
    自覚の有無はともかく、この時期まで来ると、死という結末を悲しむことさえ作品鑑賞の一部として心構えできている人が結構いるんじゃないかというのが正直なところでさ。フィクションにおいては、悲しいことを悲しむこともまた、娯楽の一種なんだよな。
    そう。
    この作品はフィクションであり、ぼくらは当事者ではなく、どこまでいっても受け手であり読者である。
    そして、それは虚構と向き合ううえでは健全な距離感であるとも思うんだ。

    幸せになってくれ、生きてくれと思いながら、心のどこかで宣告された終焉のときを期待してもいる。
    まっことアンビバレントな感情であるし、ことによっては茶番のようにも映るけれど、そういうもんだよなあ、って。

    傲慢で残酷で身勝手なぼくらは、まったく傲慢に残酷に身勝手に、フィクションに対して愛したり憎んだり縋ったりして日々を生きているわけだ。ぼくはわりと、自分たちのそういうところが好きなんだよ、けっこう。
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    ブログ再始動しといてなんだけど、もう最近(つってもここ数年)はnoteとかに書くのが主流なんじゃねえのという思いがある。
    一昔前に比べると、ずいぶんブログって存在感なくなったよね。ブロガーって言われてた人たちも、今じゃその多くが活動の場を他に移したりしてる印象。もちろん世の中からブログが完全に消えたわけじゃない(今まさに書いてるわけだし)けど、今では使われてももサブのような扱いになってる感は否めない。ブログもかつてはweb表現において余裕でメインを張ってた存在なだけに、それはすごく感じるわけですよ。

    もっとも、その頃はtwitterもFacebookも浸透してなかった。
    ようはSNSに食われちまったなあ、って。あるいは小説だったりイラストだったりを公開するにしても、もはや個人のサイトではなく、なろうやらpixivやらの創作系SNS(投稿サイトと呼ぶべきなのかもしれないけど、SNS的な機能も備えていることは確かよね)があり、今じゃそれらが主流なわけだし。

    思えばもっともな話なんだよな。
    個人のブログやサイトって、取っ掛かりがなけりゃそもそも辿り着くことが難しい。そこの管理者、ブログ主に格別の興味を抱いて、サイトとかあるのかな? と調べようとしなければ、存在自体感知されない。
    んで、その最初の取っ掛かりになる「格別の興味」はまずどこで抱くんだよって話にもなってくる。
    (個人サイト間で相互リンクを貼りあっていた時代がありましたね。今思うと涙ぐましい努力だ)

    じゃ、やっぱSNSだなってなるわけで。
    そこでなら出会いがある(変な意味じゃないぞ)。まず最初の大前提である「知る/知られる」がある。その気があれば、その先の「交流」も「公開」も、ぜんぶSNSの中で完結してしまう。個人サイトの出る幕がないわけさ。
    元々ブログとかやってた人がサブとしてSNSを始めたんだけど、いつの間にか力の入れ方が逆転してる…なんて光景をSNS浸透期にはよく見かけたもんだよね。気持ちはめっちゃわかる。ぼくもそうだった。twitterや投稿系サイトでぜんぶ事足りちゃう(というかそっちのが便利)なかで、個人のサイトを更新し続ける意味がどんどん失われていってしまうんだな。もちろん、使い分けがまったくできないわけじゃないはずなんだけど、どうしたって相対的な価値が下がってしまうんだ。

    いま「使い分け」って言い方をしたけど、ブログに活路があるとすればそこだよね。いや、そこ「だった」よね、というほうが正しいか。
    たとえばtwitterなんかは特に、まとまった長文を投稿するのに向いてない。連投すりゃいいんだけど、やっぱどうしても機能的に見づらくなるし、たぶん見る人の需要とも噛み合いにくい。だから、まとまった長文を書きたいときは個人サイトで書いて、twitterではリンク貼って告知と誘導をする。完璧な連携。これでブログにも居場所が! という時代は確かに一頃あったと思う。

    でもやっぱ、過去形なんだよ。
    今やその長文を貼り付ける場所さえも、個人サイトではなく、総合的な投稿サイトに取って代わられた印象が強いよね。
    たとえば冒頭に挙げたnoteなんかがそうじゃん。なんせ個人サイトに比べたら、書き手読み手のマッチング能力に雲泥の差がある。勝負にならない。こっちで書いてこっちで読んだほうが大体の人にとって便利なわけです。その気になれば有料記事なんかでわかりやすく収益化もできるしね。(もっとも、それが成立する人は少数だけど)

    これではもう個人サイトの立つ瀬がない。なんか差別化できるウリがないことには。
    となるとそれは、個人サイト故にレイアウトからなにから自由にいじれることかな、とは思う。その気になれば自身の納得、満足いくまでサイトを自身の世界観に染め尽くすことができることかな、って。
    ただこれ、ものすごい労力だ。そのうえべつに、個人サイトが持つ弱点を克服できてるわけでもない。やっぱり、(投稿サイトに比べて)辿り着きにくいことに変わりなく、読まれにくいことに変わりなく、そもそも知られにくいことに変わりがない。それらのデメリットを承知の上で、それでも自分のコダワリを持ったサイトをつくりたいという思いがなければ、単純に労力に見合わないよね。

    で、まあ。
    個人サイトという曖昧な言い方がミソだったんだけど、そこまで自由にできるのはもうブログではない。HPだよね。
    とことん自由にできるというのをウリにするならば、それはブログではなくHPの仕事だよなあ、って。どっちも纏めて個人サイトだけど、ここでその性質の差が出てくるわけですよ。
    かつてブログが人気を博したのは、HP的なことを、もっと手軽にできたからだと思う。少なくともぼくはそう。
    結構自由にカスタマイズできるとはいえ、完全に1から作ることができるHPに比べると、さすがに自由度は下がるよね。でもその代わり、もっと手軽で気軽に開設も更新もできる。それがブログのウリだと思ってたんだけど…。

    今やそのウリは、競合する他サービスに比べると「半端」ということになってしまうんじゃないかな、って思うわけです。
    「読む/読まれる」という根本的な部分や、手軽さ利便性という観点でいうと、個人サイトはSNS+投稿サイトのコンボに勝つのは厳しいものがある。ならばと「自由度」を突破口にして活路を開こうとしたとき、ブログはマイルドなぶんHPに置いてかれちゃうように感じるんだよ。立ち位置があやうい。

    なので。
    今あえてブログでやることに価値を見出す人がいるとすれば、その「半端」さが丁度いい塩梅だと感じる人かなと思う。
    SNS+投稿サイトの手軽さ利便性繋がり力を切ってでももっと自由に表現したい、でもHPレベルのゴリゴリの自由さは大変すぎる、というぐらいバランスの人。それぐらいのバランスが心地いいという場合もまた確かにあるはずなので、「半端」なのがブログのいいところである、という言い方はできる。売り文句としては緩すぎるけどさ。

    で、結局ブログ上でブログのダメ出しみたいなことやってきてなにが言いたいのかと言うと。
    「長文ならブログ、と決めなくてもよくね?」って自分に対して思いはじめたということですね。
    もともとブログ復帰したのは、長文書く場所を確保したかったのと、そもそもの文章のリハビリなんだけど、言ってしまえばそれらはブログでなくてもできる。それこそnoteでもいいわけだ。
    「どうせ誰も読んでないし」で開き直って好きなこと書けるのも間違いなく(ぼくにとっては)良さなんだけど、そうは言ってもなんか書いてる以上、ちょっとは誰かに読んでほしいときもあるわけですよ。欲張りなのな。
    なら、誰に読まれなくても別にいい本当の雑記と、ちょっとだけ頑張って書いた雑文で、書き分けてもいいのかなと思った次第。
    もちろん、公開先を変えたところで読まれるという確証もない(というか結局読まれないと思うけど)し、また逆にブログで公開してたら絶対に誰にも読まれないというわけでもない(でも限りなく絶対に近い)から、そんな書き分けにほとんど意味はないのかもしれない。
    長々と媒体によるマッチング能力の差について書いといてなんだけど、読まれる力(主に知名度)がある人はどこで書いても読まれるし、それがない人はどこでなに書いたって大体読まれない。それが現実。結局の所。
    タロ犬が前者なのか後者なのかは言うまでもないことですね。いやこれ愚痴じゃなくてね。単純に事実としてね。

    まあ、なんというか。
    noteとかでも一度書いてみようかな。くらいの思いつきに、なんとなく後付で理由をつけたらこの雑文ができた。
    ということです。結局「なんとなく」としか言いようがないアレ。

    なんか前回記事で、次はもっと旬な話をするぜ的な予告をした気がするけど、さっそく嘘だったよね。今日の話のなにがどう旬なんだバズった話題なんだ?
    ま、嘘予告は別にいいんだよ。更新が途絶えなかっただけよし。
    だけど、あらためて自分の約束を破る才能に恐怖したので、次回の内容について約束や宣言はしません。

    ほんと、一時の気分で予告や宣言なんぞするもんじゃないよね。
    「そのときの自分と今の自分は別人なんやで」と、あのときの自分に伝えたい、この想い。

    いざ駄文雑文を書こうってなると困る…みたいなことは言ったけども、実のところ、頭の中にはなんかしら話題はいつでもあるんだよ。
    ただほら、タイミングってあるじゃん。あるいは脈略、みたいなものがさ。
    「なんでいまその話?」という話題のチョイスはその時点でスベった感があるというか。

    いや、いいんだよ? 脈略なんかなくたって。
    べつにニュースでもなけりゃ時事ネタを扱いたいわけでもないんだから。話題の鮮度なんか気にする必要ない。令和に昭和の話を唐突にはじめって誰に怒られるわけでもないんだけどさ。
    でもま、令和に昭和の話をするよりは、令和には令和の話をするほうが、聞く側は入りやすいかなって。

    あと、同じ文章であっても「そのとき」出すか「後から」出すかで、文章の持つ質が変わってしまうというのがある。

    えーとほら、たとえばミステリの進行中に犯人を推理するのと、解決編の後に犯人を指摘するのじゃまったく違うよね。前者はたとえ推理が外れていたって、内容如何では価値のある文章たりえる。対して後者はまさに後出し孔明ってやつで、なんか特別な事情がないかぎり滑稽でしかない。
    正しいか間違っているかということ以上に、そのとき語るかどうかというのが重要ってことがあるんだよな。
    単純に、語り尽くされたあとから満を期して登場するのはハードル高いという話でもある。

    ぼく日頃思ったことを色々と書き留めておくメモみたいなファイルがあって、もう何年前から書き溜めてるかわからんのだけど。
    それを読み返すとさ、どっかで公開しようとしたままタイミングを逃して実質お蔵入りになってしまった文章の死骸がたくさん見つかるんだよね。書いてある事自体は今のぼくが読んでも(贔屓目かもしれないが)なかなか面白いものもあったりするのに、時期を逸していて今さらこれを語ってもなあという無念の文章群。我が事ながらちょっと惜しいなと思うわけです。

    だから、ここではできれば「そのとき」を優先して話題にしたい。
    「そのとき」っていうのは、たとえば必ずしも世間で話題になってるそのとき、という意味ばかりでなくてもいいんだ。だけど、話題にするなんかしらの脈略、少なくともぼくにとっての必然が欲しい。
    その必然が、どうしようもない駄文雑文に、いくばくかの熱や質を与えてくれるんじゃないか…っていうオカルトを信じているわけですよ。

    だから。
    ぼくのなかでの必然さえ成立すれば、令和に昭和の話をするのも悪くない。いや昭和の話とくに思いつかんけど。
    ようは自分でタイミングに納得さえできれば「いまさら?」という古い話も、「もう?」っていう先の話もできるってことで、逆に言えば納得できないとあんまり話題にしたくない。話のネタ自体はあったとしてもね。

    そんなの自分で勝手に納得しちゃえばいいじゃんって言われたら、そうなんだけど。
    これがなかなか簡単にいかない、面倒くさい自意識なので。だからこんなまどろっこしい駄文を書いてるんだよ。いちいち自分に言い訳をしないと一文字だって書き進められない、そんなふうになっちゃったからここで今こうやってリハビリしてるわけだしな。今さら何を、って感じだ。

    なので次回はできるだけ「そのとき」を感じるHOTな話題で駄文を書きたい。
    なんならtwitterでバズってるような話題。もうそういうのにも乗っかれるときは乗っかる。

    なんというか。
    あとから「もっともな」事実を語るより、いま「もっともらしい」デタラメを語るほうが楽しいにきまってるからな。


    読んで字の如し。
    いきなり出鼻を挫かれたわけだよ。

    えーと今日が2月の9日だ、前回の記事から何日経ってる? だいぶ経ってるよね。
    これについてさっそく言い訳があるわけですよ。

    このブログサービス、ようは忍者ツールズ全般に障害が発生してだいぶ長いこと記事更新しようがなかったのな。ぼくのせいじゃない。余は悪くないもん。

    ほらぼくのことだから「復帰するとか言ってさっそく三日坊主で終わったか」とか思われてた可能性あるじゃないですか。日頃の行いのせいで、発言の信頼のなさに信頼があることは自覚してるからさ。だからここはちゃんと言い訳しとく。正当な理由です。ほんとほんと。

    でもまあ、おかげで今日の記事は楽だなって部分もたしかにある。
    なんせ「駄文雑文を書きなぐる」つっても、駄文雑文ってつまり具体的になに書きゃいいんだ…? という思いも多少あったんでね。そりゃ書きたいものがあるときはそれ書けばいいけど、とくになにも考えてないとき(厳密に言えばそんなときはないが)は困るからな。

    だから「記事更新しようと思ったらやむなき事情でいきなり出鼻をくじかれたよ」っていう経緯をそのまま今記事にしてる。考えようによっちゃネタがないということでさえネタのひとつなんだよな、どんな文章であれ文章を書いている時点でぼく的には偉いのです。

    だから、今回の記事は「まだ三日坊主で終わってたわけじゃないよ」という生存報告。
    「まだ」ってとこには不安しかないけど、ここは予防線張らせといてくれ。自信ゼロだから。

    そんなわけなので、次回もまた駄文雑文を書くつもりです。むしろ次回からこそ本当の始まりだと言っていいんじゃないか。ほら今回はトラブルあったわけだし。
    本当の始まりってことは、こういう経緯報告生存報告で終わるのではなく、なんかしら話題を持った駄文雑文にしなきゃいかんのでは説もありますが、そこはそれ。次回の自分にすべてを丸投げして、今日のところは終わりとする。

    ま、なんとなくなんかしらは書けるでしょう、となんとなく思います。

    このブログの存在を忘れていたかって?
    そもそも、ぼく自体が何処で何をやっているのやら、という状態だったか。

    でもまあ、生きてるわけだ。今のところは。

    生きている以上は何かしらやっているし、また性懲りもなく文章を書いたりあるいは書かなきゃと思ったりしながら日々を過ごしているわけだよ。なんで書かなきゃいけないのかは、ここまでくるとわからなくなってくる。
    もはやどうでもいいことだ、理由なんて。

    で。
    「書かなきゃ」ってことはつまり「書いていない」ってことだ。
    書かなきゃと思いながら書けない。書けない理由も呆れるほど単純明快で、本当にただ面倒くさいだけなんだけど、そうやってサボってだらだらと日々を過ごしているうちに、どんどんどんどん「書けない」が積み重なって、ちょっとやそっとじゃマジで書けなくなるわけだ。
    腰が重くなりすぎて地べたとくっついちゃうんだな。

    そりゃこの10年…いや、5年でもいいや。その5年のあいだに、本当に一切なにも書いてないかと言えば違うし、年に1回くらいはなにかしらカタチにはしてるんだけど。だけどまあ、頻度も酷けりゃ速度も遅い。思えば昔はひと月やふた月に一本書いてた頃もあるわけで、随分と衰えたもんだな自分よ? というお気持ちがわいてくるよね。

    それどころか、もうこういう雑文というカタチですら、ロクに書けてないんだよ、文章。
    このブログが5年以上ほったらかしになってたのは言わずもがな。「twitterに移行してブログの更新頻度が落ちた」という言い訳も当時はまんざら嘘じゃなかったけど、今やそのtwitterですらツイート数が顕著に減っててね。まあtwitterであんまりべらべら思想信条の長文連投するのもどうかと(今では)思うので、減ったこと自体はべつにいいんだ。
    いいんだけど、そのぶんどっか他で何か書いてたのかと言えば書いてない。ので、単純に文章を書く量が激減しただけなんだよな。作品にしろ雑文にしろ、さ。

    なんでもそうだけど、文章や絵を描く力みたいなものも、体力筋力と同じように使ってないと衰えていくんだよね。日頃から書いたり描いたりしてなきゃ維持さえできない。レベルアップなど目指そうものなら、そこにさらにプラスアルファが必要なわけだ。厳しいね。

    いちばん書いてた頃の自分がはたしてどのへんのレベルにいたのか…まあ大したとこにいなかったのはわかるけど、今のぼくはその頃よりもさらにずっと下の下にいるわけじゃん。
    でも、そういう時代を経て、単純に時間も経て今に至った自分は、へんに目だけは肥えてるわけ。さして肥えてもない? ならまあ、自分に対するハードルだけは上がったままだ、という言い方でもいいや。ようは自分に求めるレベル、その自意識だけは衰えずに肥え育っとったわけよ。ほんと餓死してりゃいいものを、って感じだ。
    「一度上がった生活水準を下げるのは難しい」なんて話をよく聞くけど、あれはこういう精神的なものについても言えるのかと膝を打ったね。まあ、どっちも結局は自意識の問題なんだから同じ話だってことなんだろうな。

    ま、つまりは。
    「不甲斐ない現状がなんか嫌だなあ」という自意識が「でも面倒くさいしなあ」という自意識と交渉して、なんとか折り合いをつけた落とし所がここってことです。
    ひとまず駄文雑文でいいから、書く習慣を取り戻すところからやってみれば? というね。
    もともとtwitterで青臭い長文を投下することに抵抗感が出てきていて、だけど書こうかなと思うこと自体はちょくちょくあったりして、結局書きそびれたりしてて。ならそういうしょうもない雑文はこっちに書き捨てりゃいいんじゃねぇの、と。
    幸か不幸か、今さら『迷い犬ゴーホーム』なんて誰もみてないわけだよ。恥ずかしい駄文を載せるには丁度いい場所なんだよな。オマケにいちおう「文章を書く」ことのリハビリにもなる。リハビリの質はともかくとしてね。

    そんなわけだから。
    これからまたちょくちょく、疲れない程度に、ブログ更新していこうかなと思ってます。
    ただ、ぼくがどの程度で疲れるかを見くびってもらっては困る。調子いいときはともかく、気分が乗らないときは一ヶ月更新がなくても不思議じゃないだろう。それもやりすぎると結局失踪と変わらなくなってリハビリも企画倒れになるけど、そんときはそんときです。
    ぜんぜん強い覚悟をもってやるわけじゃない。ほんの気まぐれ、気の迷いでやってることだよ。
    でもそういう気の迷いが、なんとなくでなんとなく続いたらラッキーだなって思ってて。
    いや、これわりと真面目な話でさ、結局人生そういうなんとなくの偶然が積み重なって出来てるよなという思いがあるからさ。だからこのブログも運がよければまだ続くと思うんだよ。

    なんとなく。
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