このブログの存在を忘れていたかって?
そもそも、ぼく自体が何処で何をやっているのやら、という状態だったか。
でもまあ、生きてるわけだ。今のところは。
生きている以上は何かしらやっているし、また性懲りもなく文章を書いたりあるいは書かなきゃと思ったりしながら日々を過ごしているわけだよ。なんで書かなきゃいけないのかは、ここまでくるとわからなくなってくる。
もはやどうでもいいことだ、理由なんて。
で。
「書かなきゃ」ってことはつまり「書いていない」ってことだ。
書かなきゃと思いながら書けない。書けない理由も呆れるほど単純明快で、本当にただ面倒くさいだけなんだけど、そうやってサボってだらだらと日々を過ごしているうちに、どんどんどんどん「書けない」が積み重なって、ちょっとやそっとじゃマジで書けなくなるわけだ。
腰が重くなりすぎて地べたとくっついちゃうんだな。
そりゃこの10年…いや、5年でもいいや。その5年のあいだに、本当に一切なにも書いてないかと言えば違うし、年に1回くらいはなにかしらカタチにはしてるんだけど。だけどまあ、頻度も酷けりゃ速度も遅い。思えば昔はひと月やふた月に一本書いてた頃もあるわけで、随分と衰えたもんだな自分よ? というお気持ちがわいてくるよね。
それどころか、もうこういう雑文というカタチですら、ロクに書けてないんだよ、文章。
このブログが5年以上ほったらかしになってたのは言わずもがな。「twitterに移行してブログの更新頻度が落ちた」という言い訳も当時はまんざら嘘じゃなかったけど、今やそのtwitterですらツイート数が顕著に減っててね。まあtwitterであんまりべらべら思想信条の長文連投するのもどうかと(今では)思うので、減ったこと自体はべつにいいんだ。
いいんだけど、そのぶんどっか他で何か書いてたのかと言えば書いてない。ので、単純に文章を書く量が激減しただけなんだよな。作品にしろ雑文にしろ、さ。
なんでもそうだけど、文章や絵を描く力みたいなものも、体力筋力と同じように使ってないと衰えていくんだよね。日頃から書いたり描いたりしてなきゃ維持さえできない。レベルアップなど目指そうものなら、そこにさらにプラスアルファが必要なわけだ。厳しいね。
いちばん書いてた頃の自分がはたしてどのへんのレベルにいたのか…まあ大したとこにいなかったのはわかるけど、今のぼくはその頃よりもさらにずっと下の下にいるわけじゃん。
でも、そういう時代を経て、単純に時間も経て今に至った自分は、へんに目だけは肥えてるわけ。さして肥えてもない? ならまあ、自分に対するハードルだけは上がったままだ、という言い方でもいいや。ようは自分に求めるレベル、その自意識だけは衰えずに肥え育っとったわけよ。ほんと餓死してりゃいいものを、って感じだ。
「一度上がった生活水準を下げるのは難しい」なんて話をよく聞くけど、あれはこういう精神的なものについても言えるのかと膝を打ったね。まあ、どっちも結局は自意識の問題なんだから同じ話だってことなんだろうな。
ま、つまりは。
「不甲斐ない現状がなんか嫌だなあ」という自意識が「でも面倒くさいしなあ」という自意識と交渉して、なんとか折り合いをつけた落とし所がここってことです。
ひとまず駄文雑文でいいから、書く習慣を取り戻すところからやってみれば? というね。
もともとtwitterで青臭い長文を投下することに抵抗感が出てきていて、だけど書こうかなと思うこと自体はちょくちょくあったりして、結局書きそびれたりしてて。ならそういうしょうもない雑文はこっちに書き捨てりゃいいんじゃねぇの、と。
幸か不幸か、今さら『迷い犬ゴーホーム』なんて誰もみてないわけだよ。恥ずかしい駄文を載せるには丁度いい場所なんだよな。オマケにいちおう「文章を書く」ことのリハビリにもなる。リハビリの質はともかくとしてね。
そんなわけだから。
これからまたちょくちょく、疲れない程度に、ブログ更新していこうかなと思ってます。
ただ、ぼくがどの程度で疲れるかを見くびってもらっては困る。調子いいときはともかく、気分が乗らないときは一ヶ月更新がなくても不思議じゃないだろう。それもやりすぎると結局失踪と変わらなくなってリハビリも企画倒れになるけど、そんときはそんときです。
ぜんぜん強い覚悟をもってやるわけじゃない。ほんの気まぐれ、気の迷いでやってることだよ。
でもそういう気の迷いが、なんとなくでなんとなく続いたらラッキーだなって思ってて。
いや、これわりと真面目な話でさ、結局人生そういうなんとなくの偶然が積み重なって出来てるよなという思いがあるからさ。だからこのブログも運がよければまだ続くと思うんだよ。
なんとなく。
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